ストーンハウス伝承神話「とある魔術師の備忘録 – オブジディロス」

水はけの悪い悪路を何度も往復しては、古びた水瓶に水をくむことが少女の日課でした。
少女に名は特にない。少女は書類上、この世には存在していないのだから。
彼女の両親からはリリーと呼ばれていた。だから彼女はリリーなのです。
リリーの家はとても貧しい。
一家の大黒柱である父を流行病でなくしてから、母の精神はおかしくなり、収入の途絶えた母娘は唯一の財産であった小さな家を売り、貧民街の人間ですら恐れをなして逃げる「帰らずの森」へその身を置くことにしました。
元々胸に疾患を抱えていた母に働く力はありません。
母の薬代と、食べていくだけの食料を買うお金を手に入れるため、リリーは毎日水を汲んでは街へ売りに出かけていました。
全ては母娘二人が慎ましくも幸せに生きていくために。

「帰らずの森」の奥にある泉を見つけたのは、家を売ったお金が底をつきた数日後でした。
母に「木苺が食べたい」といわれ、森の中へ探しに出かけた時、たまたま見つけたのです。
見たこともない美しい泉でした。
「おや、珍しいね。お客様かい?」
泉の美しさに見惚れているリリーに誰かが声をかけます。
聞き心地の良い、テノール。声のしたほうを見ると、黒い布を頭から被った青年がいました。
顔はよく見えませんが、わずかに見える口元は柔らかな頬笑みを浮かべていることを示しています。
「母に頼まれて木苺をとりに来たんですが、道に迷いました。そうしたらここへたどり着いたのです。美しさに見惚れていました。邪魔なら帰ります」
リリーは居住まいをただすと、青年に頭を下げました。
すると、青年はフードをとり、ボートから降りました。
「邪魔ではないけれど、もう帰らないと暗くなってしまう。獣に食われてしまうよ。ほら、この光が案内するように歩いてごらん。気を付けてね」
青年はリリーに近づき、傷つき汚れた小さな手を包み込むと、ふう、と息を吹きかけました。
少女の掌にほのかな光が宿ったのです。
ゆっくり指を解くと、光がふわりと揺蕩いながら一定の方向へ進みだします。
「ありがとうございます!」
リリーはもう一度青年に頭を下げると、光を追いかけます。
これが少女・リリーと、ストーンハウス逸話に残る『禁忌衆』の一人・オブジディロスとの出会いとなります。



森が夜の色に染まりきった頃、リリーは無事に帰宅しました。
雨風の浸食で腐った木のドアをノックし、母を呼びます。
数分の間を置き、ドアを開けたのは、見たこともない大男でした。
「あら、帰ってきたのね。お帰りなさい。木苺は採れたの?」
珍しく、椅子に座る母は、帰ってくるなりリリーに詰め寄ります。
「ごめんなさい、木苺はなかったの。ごめんなさい」
空の籠を見せ、リリーは母に謝ります。
すると、母は病弱な人間とは思えぬ力でリリーの頬を打ちました。何度も、何度も。
母の一方的な暴力行為を、大男はただ笑ってみていました。
ひたすら平手打ちに耐えながら、ごめんなさいと悲鳴を上げるリリーを馬鹿にするかのように。
母の平手打ちが止み、床に伏せているリリーに大男はこう提案をしました。
「病気のお母さんが木苺を食べたいといったのに、とりに行くどころかどこかをほっつき歩いていた不良娘のお前が名誉を挽回するには、この森の奥にある泉の水を汲んできて沢山お金を稼ぐほかないんだよ。お母さん大好きだろ?お母さんのためなら何でも出来るんだろ?その金で好きなだけ木苺を買ってやればいい。名案だろ?な?」
大男の言葉にリリーは小さくうなずきました。
おそらく大男がいっているのは今日迷いながらたどり着いたあの泉のことに違いありません。
リリーは翌日、背中よりも大きな水瓶を背負い、泉へむかいました。
記憶を頼りに、ひたすら悪路を進み、リリーは漸く泉へたどり着きました。
変わらぬ美しさをたたえる泉に、リリーは罪悪感を覚えます。
(こんな美しい泉の水を奪っていいのかしら)
しかし、リリーに迷うという選択肢はありません。
リリーは水瓶に水を入れるため、泉の中に足を付けます。
すると、あれ程美しかった泉は一気に濁り、そしてリリーの脚を焼きます。
「ぎゃあああああああああああああ!!!!!」
白い脚はみるみる焼けただれ、見る影もありません。
これは毒水だ、大男に騙された!リリーは何とか泉から上がろうとしますが、痛みでその場を動けずにいます。
渡された水瓶は跡形もなく説けて消えてしまいました。
このまま死んでしまうかもしれない。リリーは死を覚悟しました。
「君は昨日の女の子だね?!なにをしているんだ!」
声の主は昨日の青年・オブジディロスでした。
彼はためらうことなく泉をかけ、リリーの脇を抱えそのまま泉から引きずり出しました。
不思議なことに、泉から出た途端、焼けただれた両脚は元に戻りました。
激痛はそのままですが。
「多いんだ、この泉を汚そうとするものが…」
まさか君もだとはね。オブジディロスの軽蔑した視線がリリーを容赦なく突き刺します。
泉を汚すつもりなどリリーにはありませんでした。
大男のいうままに、ひいては母に愛されるために、泉に足を踏み入れたのです。
しかし、リリーは何も言えませんでした。
結果として泉を汚してしまったのですから。
「まあ、いい。今回は見なかったことにしてあげるから、二度とここへは来るな。いいね?」
オブジディロスの言葉は今のリリーにとっては絶望以外の何物でもありません。
それだけはどうしても避けたいと、未だに痛みの残る脚を引きずりながら彼の肩を掴んみます。
痛みに喘ぎながらも、リリーは自分の置かれている状況と、泉の水を汲みに来た理由を話しました。
オブジディロスは瞬時に悟りました。
この大男がリリーを利用して悪事を働こうとしていることも。
リリーの優しい心に付け込んで、母親をだしに骨の髄までしゃぶりつくさんとしていることも。
そしてリリーに利用価値がなくなったら母親も消し去ろうとしていることも。
オブジディロスはリリーにある提案をします。
「リリー、君の置かれている状況はよくわかったよ。大変だったね。これは僕からの提案なんだが、契約をしよう。君は泉の水を好きなだけ汲んでいくといい。その代わり、君のその長い髪をくれないか?」
その提案はリリーにとっては好条件でした。
しかし、ためらう気持ちがないわけではありません。
母は、リリーの髪を結うときだけは優しい母の顔に戻ります。
最近はめっきりその機会もなくなったのですが。
リリーは意を決します。
髪の毛はいずれ伸びるのですから。
「解りました。ありがとうございます。おねがいします」
その言葉を聞き届けたオブジディロスは節の浮いた指先をゆうらりと弧を描きます。
途端に、リリーの腰まであった赤毛は肩口までの長さになり、切り取られた髪の毛は束の状態でオブジディロスの手の中に納まっていました。
「これで契約完了だよ。さあ、好きなだけ持っていきなさい」
オブジディロスの指すほうを見れば、先ほど跡形もなく消え去っていた水瓶が転がっていました。
それだけではありません。いくつも、いくつも、地面からずるりと出てくるではありませんか。
にわかに信じられない光景にリリーは固まってしまいます。
「こ、これは…?」
「ああ、水瓶が溶けてしまったからね。土の精と水の精に頼んで作ってもらっているんだよ。…もっとほしいかい?」
「え、あ、いえ」
「そうかい?」
オブジディロスは指を一つ鳴らしました。
それを合図に水を含んだ土壌は一気に静かになりました。
リリーは一つ頭を下げると、泉に一番近い位置にある水瓶をもって泉に足を踏み入れます。
先ほどと違い、泉は冷たくリリーを受け入れます。
契約は確かに履行されたのです。
小柄な少女には水瓶一つがやっとでした。
重たい水瓶を何とか引きずり、陸地に引き上げると、リリーは遠くにいるオブジディロスに向かいお礼を述べます。
「ありがとうございます!おかげで、助かりました!」
短く切られた赤髪が彼女の動きに合わせてさらさらと動きます。
「ちょっと待ちたまえ、君に渡すものがある」
担ぎ籠の扉を開くリリーのもとへオブジディロスは駆け寄ります。
その動きはどこか不自由そうでした。
オブジディロスへ向き直るリリーの赤髪を一房掴むと、決して器用とは言えない手つきでリボンを巻き付けます。
「お守りだよ。君が傷つかないように、そして幸せが訪れるよう」
リリーは顔の横に垂れるリボンの端を掴みました。
それは貧乏暮らしの長い彼女でもわかるほど極上のものでした。
「西日が大分傾いている。今日はもうお帰り」
オブジディロスの言葉にリリーはその場を去ります。
大きな水瓶を背負い、仲の水をこぼさぬよう慎重に踏みしめながら歩く背中を見送ると、オブジディロスは踵を返します。
その目つきは先程までリリーに向けていたものとは異なり、大変冷徹なものでした。
「邪魔をするなといったはずだが?」
すると、繁みの中からオブジディロスと同じ黒い布を纏った人物が顔を出しました。
年のことはリリーよりも上、といったところでしょう。涼やかな美貌が印象的な女性でした。
女性は枝に気を付けながら茂みから出てくると、ずんずんとオブジディロスへ詰め寄ります。
「いいえ、私は貴方を守るためなら命すら惜しくありません!ここは本来キールの遺志を継ぐもの以外不可侵の場所です!たまたま迷い込んだからといい、あんなみずぼらしい小娘の侵入を許したどころか、泉の恩恵まで…っ。これがストーンハウス協会に知られたらいくら三聖人・オブジディロス様であってもただでことが終わるはずがありません!一刻も早くあの小娘を葬り去らねば!」
物騒なことを口にする女性の顔をオブジディロスは力の限り掴みます。
「サリマン。いくらお前が私の大事なでしたといっても、あの子を悪く言うことは許されないことだよ?解らないほどお前は頭が悪いはずがないだろう?」
ミシミシと骨がきしむ音がします。
死を直感した女性、サリマンは痛みと恐怖で畏縮した生態を必死に震わせ謝罪を述べます。
滅多にない師の暴行に、サリマンは改めて思います。
己の師が一人の少女に惚れ込んでいると。
少女が迷い込んだ泉は、全ての魔術師の力の源でした。
心清らかな魔術師であれば、すべからくその恩恵を受けることが出来るのです。
その聖域の管理をストーンハウスより一任されたのが、このオブジディロスというわけです。
「私は何も言いません。私は何も見ていません。私は何も聞いていません」
「さすがは私の弟子だ。では、行こうか」
ぬかるんだ土壌にサリマンは大きな魔方陣を描きます。
仄暗い光が二人を包み込むと、二人の姿は消え去っていました。
そして、あれだけ広大な泉は一瞬にして鬱蒼とした森へと姿を変えたのです。



リリーの売る水は飛ぶように売れました。
空の白む少し前に汲む水は、不思議と時間が経っても冷たさを保ち、飲めば柔らかな喉越し。
ある人は長年悩まされた頭痛が治ったといい、またある人は子供の痘痕が綺麗に消え失せたといいます。
評判が評判を呼ぶにつれ、悪いことを考えるのが大人たちです。
リリーの評判を潰そうと、あの水には夢見の毒が入っていると嘯く大人が表れました。
一時期悪い噂に町中が踊らされ、リリーは水を売ることをやめました。
すると、町では疫病が流行し、医師ですらも匙を投げるほどでした。
噂に踊らされていた一人でもある町長が直々にリリーに水を売るように懇願してきました。
町の人たちのためならと、リリーは町のみんなに水を無償で施したのです。
それからリリーを悪くいう人は誰もいなくなりました。
今度は、リリーの水を使って大儲けを考える人が現れました。
その人物は、今やリリーの義父として勝手に一家の中心に鎮座しているあの大男です。
大男はリリーが稼いできたお金を奪っては自分の遊び金に費やしていました。
わずかに残されたお金は母の薬代と食事に消えていきます。
それでも、母を医者に見せることが出来る。いくら大男の素行が悪くても自分が水を売りに行っている間母を病院に連れて行き、時折外の景色を見せてあげています。
以前とは違い、母の顔に笑顔が戻ってきていることは事実です。
母が笑ってくれているなら。母が幸せなら。そう思えば日々の折檻も耐えられます。
ある日、母が倒れて、そのまま入院することになってしまいました。
リリーが見た母は、胸元を吐血で真っ赤に染め、ゼーゼーと喘ぐ姿でした。
リリーは必死に祈りました。神様、どうか病気の母を助けてください。
どうにか一命はとりとめましたが、医師曰く、しばらく病院暮らしが続くといいます。
母の着替えを持っていくリリーに大男は話があると足止めをします。
リリーはうんざりしていました。
以前から母が席を外すと、いつも大男は金儲けの話をしてきます。
はじめは、水の値上げ。挙句には泉の在処を教えるよう強要してきます。
リリーはそのすべてに応じませんでした。
いくら稼いてきても、殆どが大男の手中に収まってしまうからです。
そして、リリーが応じないと大男は決まって暴力をふるいます。
それでもリリーは屈しませんでした。
最近は大男も諦めたのか、その話をすることがなかったのに、なぜ今になって蒸し返してきたのか、リリーにはわかりませんでした。
「何度も言っていますが、その話はすべて受けません!」
リリーは気丈にふるまいます。
しかし、大男は歪に笑むと、ある切り札を出してきます。
「お母さんの病気、治したくないの?」
「お義父さん、世界一のお医者さん知ってるよ?」
「知りたくない?」
男の言葉は呪詛のようにリリーを縛りつけます。
そして、彼女に与えられた選択肢は一つしかありませんでした。
「解りました。それでお母さんをそのお医者さんに見せてくれるというなら泉の場所を教えます。その代わり」




時間をください。
そういって家でてから半日。リリーは泉のほとりで一人の男を待っていました。
会うのは久方振りです。
太陽が一番高い位置へ昇った時、待ち人が現れました。
「やあ、久しぶりだね」
低くも澄んだ美しい声、オブジディロスでした。
リリーはその姿を見るなり、頭を深々と下げます。
「すみません。私は母の命と引き換えに、ある男にここの場所を教えてしましました。きっと男は水を搾取し、そしてこの場所を汚すでしょう。約束を守れずにごめんなさい。私をどうか許さないでください。どんな罰でも受けます。すみません、でも母の命には代えられませんでした」
オブジディロスはリリーを一瞥します。
その双眸は怒りに燃え滾っています。
「そう。わかったよ」
それだけを言い残し、オブジディロスはリリーのもとを去ります。
リリーはそれから何時間も待ち続けました。
しかし、オブジディロスが戻ることはありませんでした。




翌日、日が昇ったのを合図にリリーは大男を泉のある場所まで案内します。
男の仲間だという粗野な連中も一緒に。
悪路を行くこと2時間、漸くたどり着いた泉は今日も変わらぬ美しさをたたえたまま、侵入者を平等に迎え入れます。
「ここです。どうか母を助けて…っ」
「ああ、お疲れ様。つれてけ」
大男は細長い男を顎でしゃくると、言われるがまま細長い男はその取り巻きと一緒にリリーを抑えつけます。
リリーは必死で抵抗しますが、相手は男が3人。敵うはずがありません。
「お前はもう用済みだから売ることにしたよ。若くて赤毛の処女は高く売れる。髪が短くなっていたのが残念だったがな」
げたげたと笑いながら、大男とその仲間連中は次々と泉の水を汲んでいきます。
ああ、神様とは何と無情なお人なのでしょう。
せめて、母だけはお救いください。
リリーは何もかもをあきらめ、ただ黙って拘束されていきます。
「そうだ、お前の母親は使い道がなくなったからあとで毒でも飲ませて殺しとくよ。なにやら俺が死んだ前の亭主に似てるからって勝手に好きになっちまって、おかしいったらありゃしねえ!因みにお前を売るのも母親から了解もらってるから。お前と一緒になるためにあいつが邪魔だっつったらあっさりとよぉ!おお、可哀想に。神も何もあったもんじゃねえなぁ!」
その言葉が大男の最後の言葉となりました。
泉の水がいきなり水柱を作り、そのまま凶悪なドラゴンへ姿を変えたのです。
ドラゴンの慟哭は森を揺らします。その振動は町にも響ます。そして、リリーを残した全てを焼き払ったのです。
こうしてリリーを傷つけた全ては跡形もなく消え去ってしまいました。
生きる理由となった母さえも…。
呆然と焼け野原の中心で腰を抜かすリリーを見届けると、ドラゴンは空へ羽ばたいていきます。
その姿は一瞬だけですが、彼に見えたのです。






魔術師にはいくつかの禁止事項があります。
その中でも特に重篤なものが七大禁忌と呼ばれるものです。
尤も、七大禁忌を犯せるほどの強大な魔術を使えるものは現存していません。
オブジディロスを除いては。
彼は今、暗く狭い「贖罪の間」と呼ばれる独房にいます。
四方1mにも満たない狭い部屋に押し込まれた長身は懲罰の跡でいっぱいでした。
裁きの時間は刻一刻と迫っています。
何せ禁忌を犯したのです。極刑は必須でした。
そして訪れた裁きの時間。
彼に下された罰は公開処刑でした。
「オブジディロス 貴殿は聖天の肩書を持ちながら、たった一人の少女のために禁忌を犯した。よって己の恥を悔いるため針の刑に処す。尚、貴殿の門下生は全てストーンハウス協会より破門とする。刑の執行は明日。せめて貴殿の功績を表し、貴殿の思い出の場所で刑を執行してやろう。以上」
重罪人は首を垂れながら己に与えられた罰を聞き入れていました。




リリーは焼け野原をひたすら歩いていました。
ドラゴンの炎がどれほど強大か、否、オブジディロスの力がどれほど強大を思い白ます。
何もない場所を歩き続けること1日。
飢えと渇きと疲労に彼女はその場に体を倒します。

このまま死ぬのかな。
死ぬなら最後に一言あの人に言いたかったな。
ありがとう、ごめんなさい。と

段々と瞼が重たくなっていきます。
薄れていく意識の中で、黒い影がリリーのもとへ舞い降りてきました。
そして、リリーの胸倉をつかむと、いきなり殴りつけたのです。
「起きなさい。折角生かして貰った命を放棄するな」
突然の痛みに瞼と開ければ、整った顔をした女性が悲しそうな表情をしながら拳を振り上げています。
「許さない、オブジディロス様から救ってもらった命を、飢えで捨てようとするあなたを、許してはいけない!」
美女は上げた拳をゆっくりと下げ、双眸から大粒の涙をこぼします。
ぼろぼろ、ぼろぼろ。
それはリリーの頬をぱたりと濡らします。
徐々に意識を取り戻したリリーは美女に問います。
「あなたは一体?」
「私はオブジディロス様の誇り高き弟子、サリマン。私はオブジディロス様の最後の命を受け、あなたを一生お守りするためにここへ来ました」



町を焼き払う前の日です。
オブジディロスの命で、サリマンは彼の住む家を訪れていました。
滅多にないことにサリマンは期待と不安で胸を膨らませていました。
呼び鈴を鳴らすと、しばしの間をあけ弟子を招き入れるオブジディロス。
相変わらず散らかった部屋に「今度掃除してやろう」とサリマンは心に決めた。
しかし、その「今度」が来ることは二度となかった。
珍しく整頓されてあるテーブルの上におかれた一冊の本。
サリマンは嫌な予感がしました。
「明日、私は禁忌を犯す。そこで君に最後の命令を下そう」
その命令こそが、赤毛の少女・リリーを生涯守り通すことでした。
サリマンは時折嗚咽をこらえながらも全てを彼女に伝えました。
「本日、オブジディロス様は処刑されます。あなたを守った代償に。彼は誇り高き魔術師でした。そして恋に臆病な一人の男でした。知っていて?人間がドラゴンに化けるなんてどんなに優秀な魔術師でも成しえない業よ。たった小娘一人を虜にするなんてわけないのに、それをしなかったのは解ります?…それだけあなたを愛していたからよ。禁忌を破るくらいには貴方を守りたかった。だからあなたは最期を見届けるべきです」
そういうと、サリマンはリリーの細腕を引っ張っていきます。
行く先は恐らく処刑が行われる場所でしょう。
二人とも、自然と歩みが早くなります。
時間はないのですから。



昼の色と夜の色が混ざり合う。
周りは自分が吐き出した炎のように真っ赤でした。
オブジディロスは磔にされ、刑の執行を待つのみです。
過去に処刑の例は数あれど、オブジディロスのような立場のある魔術師の処刑は前例がありません。
執行人にも聊か躊躇の色が見えます。
オブジディロスは渇きで張り付く喉を震わせます。
「我が名はオブジディロス!禁忌を犯した大悪党ぞ!!何を躊躇う、罰し給え!!!」
その声を合図に刑は執行されました。
協会公認の執行人だけでは数が足りぬと、近隣の魔術師を集め、オブジディロスへ針を打ち付けます。
無数の針には毒が仕込まれ、絶え間ない苦しみが嘗ての三聖天を襲います。
己の業を悔い改めよ。終わりの見えない激痛の中で、どうか、どうか。
なかにはオブジディロスを慕う魔術師もいました。彼らは泣きながら彼に針を打ちつけます。
どれほどの時が経ったでしょう。
針山と化した彼が息絶えた時には空は白んでいました。
執行人がオブジディロスの遺体をおろすと、薪を組み、火により完全に葬りました。
跡形もなく消え去ったことを確認すると、執行人たちはそれぞれの場所へ戻りました。
ストーンハウス逸話に残る『禁忌衆』の一人・オブジディロスの人生はこうして幕を下ろしたのです。




かくれんぼは得意なの。
サリマンは唯一使える魔術が「これ」でよかったと本気で思いました。
サリマンに魔術師の才能は全くありませんでした。
使える魔術といえば自分や物の姿を「気づかれにくくする」のみで、他はからきしでした。
空が赤く染まるころ、サリマンの魔術を施した二人は処刑場にいました。
なかなか始まらない処刑に二人は一縷の希望を抱きさえしました。
過去の功績をたたえて無罪放免になるかもしれないとさえ思いました。
しかし、刑の執行を促したのは他でもないオブジディロスでした。
長い時間をかける処刑法は大変凄惨で、見るに堪えないものでした。
サリマンでさえ目を背けたものを、リリーは涙を流しながらひたすら見つめていました。
そして一瞬だけ目があったのです。
オブジディロスほどの魔術師なら、一魔術師の隠身の魔術くらい見透かすのでしょう。
真実と未来を映し出す金色と柚葉色の双眸は慟哭の衝動を抑えて涙を流す愛しい少女を捉えていたのです。
一瞬だけですが、彼は薄く笑みました。
空が白むころ、漸く息絶えた罪人を、執行人が燃やします。
二度と蘇ることのないよう、転生せぬよう、跡形もなく焼きつくしたのです。
そして執行人や他の魔術師が立ち去り、暫くして動き出したのはリリーでした。
リリーは灰をかき集めると、あろうことか口に含みます。
何度も何度も、毒の残る灰を含んでは飲み込みます。
全ての灰を体内に収めるまで、サリマンは待つしかありませんでした。
「気は済んで?」
「はい、もうあの人はいません」
全てここのなかです。と腹部をゆったりとさすります。
そう、その姿はまるで。



海の綺麗な街のはずれ。
生前オブジディロスより用意された一戸建てが二人の住まいとなります。
あの凄惨な処刑から十月が過ぎようとしています。
生計を立てるべく、サリマンは薬師として働いています。
そして、リリーはというと。
「もうすぐってところね」
「ええ、あのひとの子供よ」
丸まると膨れたお腹をいとおしそうに撫でていました。
この街に移り住んで直ぐのこと、リリーは激しい吐き気に襲われました。
何日も何日も続く症状に、サリマンは医者へ行くことを勧めました。
すると、懐妊しているというのです。
不思議なことにリリーは処女です。
心当たりがあるとすれば、あの灰でした。
「どっちかしら。男の子?女の子?」
「どっちにしろあの人に似てきっと可愛いわ」
「そうね」
それから数日もたたずして、リリーは出産。
生まれてきた子供の双眸は金色と柚葉色をしていました。
名前は考える間もなく「オブジディロス」に決まりました。
男の子は成長していくごとにあの偉大なる魔術師そっくりに成長していきます。
男の子は母のためによく学び、よく働きました。
男の子はやがて青年になり、その姿は彼の生き写しのようでした。
息子は誰よりも母親を世界で一番愛していました。
母親も息子を世界で一番愛していました。
そんな親子の幸せは永遠に続く。そう誰もが思っていました。
しかし、青年が20の誕生日を迎えるころ、リリーが倒れてしまったのです。
医者に診てもらっても原因不明。
大きな病院を勧められましたが、リリーはそれを断りました。
それから季節が巡り、丁度あの時と同じ燃えるような夕日の中、リリーは静かに息を引き取りました。
愛する息子の手を握りながら。
「サリマン。今日までありがとう」
「ああ、やはりあなたでしたのね」
夕日のせいでしょうか。青年の顔があの時の師と同じように十も更けて見えます。
青年は母の亡骸を抱えると、そのまま赤に溶けていきました。
消える一瞬だけ、サリマンの目には、見たこともないような優しい頬笑みをたたえた師・オブジディロスと、この上なく幸福な表情をしたあの日のリリーが抱き合い、そして口づけを交わしていたのです。
かつて禁忌を犯してまで一人の少女を守ろうとした不器用な男と、初めて愛を知った少女が漸く結ばれる様をサリマンはこの目で見たのでした。

この伝承に関連する魔道具: 透竜の煉鱗