ストーンハウス伝承神話「女神の接吻」

昔昔の、そのまた昔。神と人が共存する時代があった頃のお話です。

一人の堕落した男がいました。男には愛すべき女がいました。

男は女との生活を維持させるため真面目に働いていました。 稼ぎは少なくとも、二人で生きていくには何ら問題もありません。慎ましくも幸せに暮らしていました。 しかし、男の持ちあわせる浮気性が災いし、幾度目かの気迷いが原因で遂に女から愛想をつかされてしまったのです。 男にとって女は世を生きる上での唯一の糧てあり、鎖でした。

それから、箍が外れたかのように男の生活は堕ちたものとなり果ててしまいます。 酒におぼれ、賭け事に興じ、そしてなけなしの金で女を買う。 そのような生活が長く続くはずもなく、ほんの数年で男は襤褸雑巾と化してしまったのです。
金を返す当ても、住む家も、何もかもを失った男は、塵だめの中、その身をうずめていました。 高利貸しにやられたのです。 借金返済の足しにもならない僅かの私物を全てはがされ、憂さ晴らしにと暴力をふるわれた体は痛々しいものでした。 しかし、それは自業自得なのです。男もそれは解っていました。 男は己の死期を覚悟しました。

その時です。重く閉ざした瞼の裏が明るくなり、自然と開いていきます。 ぼんやりとした視界には、淡い光に包まれた、とても美しい女性が目の前で男の顔を覗き込んでいました。 澄みきった青空をそのまま流したような艶やかな長髪に、抜けるような白い肌、そして蜂蜜を溶かしたような丸い双眸が印象的な美女です。

美女は男の汚れた頬を両手で包むと、ふっくらとした桜色の唇を男のそれに重ねてきたのです。 触れるだけの口づけはこの上なく甘美で、それでいて心をとても満たされるものでした。

「あなたに神の加護を」

美女はそれだけ言い残すと、その場を立ち去ります。 男は美女を追いかけようとします。 しかし、その体は動くことはなく、やがて意識は深く、深く、沈んでいくのでした。

塵だめの中、男は朝日と共にその意識を覚醒させました。 己が生きていることにも驚きですが、もっと驚きだったのが、己の体についてでした。 暴行を受けた体には痣や傷などは一切なく、痛みもありません。 そして、身ぐるみを剥がされたはずのその身は真新しい衣類に包まれていました。 靴だって周りが映り込むほど磨かれたものを履いています。 何より一番驚いたのは自分の心持でした。 いつもならどんよりとした心が、今日は何故だか晴れやかなのです。 まるで、嘗ての自分を取り戻したようでした。

塵だめから抜け出し、歩む足取りもいつも以上に軽やかです。 久方振りでした、こんなに朗らかな気分になれたのは。 男の向かう先は、賭博場でも酒場でも娼館でもなく、最近はめっきり寄り付かなくなった自分の家、昔妻であった女と共に暮らした自分の家でした。

借金の催促状を隙間なく貼られた我が家をみて、男は「ごめん」とつぶやくと、催促状を取り払い始めました。 催促状を取り払うと、今度は家の中をきれいに掃除します。 荒廃した家の中は昔の面影などなく、男はひたすらその手を動かしました。 まるで妻との思い出を探すかのように。 床を掃き、雑巾で磨き、廃棄物をまとめる、その度に何度も謝罪の言葉を口にします。 男の目からは大粒の涙がポロリ、ポロリと零れ落ちます。

狭い家ですが、全てを片づけ終えた頃には、月が夜空を優しく照らしています。 窓から覗いた藍色の夜空はどことなく昨日の美女と思いださせます。

(そういえば、彼女はどうしているのだろう)

名も知らぬ美女のことをぼんやりと思いながら、男は床に就きます。 瞼はゆったりと落ち、それに引きずられるようにして意識は眠りの底へ沈んでいきました。

翌朝、わずかに残っていたパンで朝食を済ますと、男は街へ出かけました。 仕事を探しに行くのです。 仕事はすぐに見つかりました。嘗て男が生業としていたペンキ塗りの仕事です。 昔取った杵柄とでも言いましょうか、男のペンキ職人としての腕は良く、すぐに街一番のペンキ職人としてその名を馳せるようになりました。

丁度そのあたりからでした。男の見る夢の中に度々例の美女が現れ、そして唇を重ねてくるのです。 その夢を見るときは、決まって仕事や体調が不調で、そしてその夢の後は決まって全てにおいて調子がいいのです。
男は次第に美女に思いを寄せていきました。 彼女が美しく、そして優しいから。ということも勿論ですが、それ以上に男は美女を自分の妻に重ねていたのです。 幾度目かの夢での逢瀬の時、男は離れようとする美女を引き留めました。

「どうしてあなたは俺のもとへ現れてくれるのですか?どうして口づけだけで、離れていこうとするのですか?あなたは一体……」

美女の柳腰を引き寄せ、抱きしめると、男は一気にまくし立てます。
すると、美女は困ったように眉根を寄せ、体を捩ります。そうして男の腕から逃れようとするのです。 しかし、男は更に腕に力を入れて、それを防ぎます。

「俺は貴方に恋をしてしまった。出会ったときから、ずっと。貴方をお慕い申し上げておりました。あなただけしか見えていません。あなただけに俺の一生を捧げていきます。だから、再び俺と一緒になってくれないか?」

男は美女にそういうと、耳元でとある名前を囁きます。 それは、かつて彼が愛した妻の名前でした。 美女の蜂蜜色の双眸からは、透明の粒がいくつもいくつも零れ落ち、それは男の胸元を濡らしていきます。 美女は嗚咽交じりにこういいました。

「喜んで」

すると、二人をまばゆい光が包み込み、そして二人は寝室のベッドの上で手を握りあっていました。 しかし、空色の髪をした美女はそこにはおらず、代わりに妻がぼろぼろと涙を流していたのです。 色々言いたいことは多々あれど、男の開口一番の言葉はこれでした。

「お帰り、寂しい思いをさせてごめんね」

久方振りに抱きしめた妻の体は少しだけほっそりとしていました。
二人は空白の時間を埋め合わせるように、寄り添ったままその日の夜を過ごしました。 一人になった時のこと、そして再び二人になった今後のこと。とても一晩では語りつくせないほど話題は次から次へと溢れていきます。

男の前に現れた美女のからくりは、どうやら出ていった後、どうしても男が心配な妻が町はずれの森の奥にある湖の神におすがりし、一時的に神の力を借りたのだといいます。 その後、二人は夫婦仲良くいつまでも慎ましくも幸せに過ごしたそうです。

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